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足利尊氏 あしかがたかうじ

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242 足利尊氏 あしかがたかうじ 1305-1358(嘉元3-正平13・延文3)室町幕府初代の将軍。貞氏の子。初名は高氏。源氏再興の志をいだき、元弘の乱で幕府軍として西上した時、丹波桑田郡(現、亀岡市)篠村八幡宮で反旗をあげ、北条氏討伐の旗を挙げ、同時に密書を諸国の豪族に送って協力を求めた。赤松則村・千種忠顕らとともに六波羅探題を滅ぼし、奉行所を置いて隠然たる勢力を得た。建武新政第一の功臣として鎮守府将軍となり後醍醐天皇の名の一字を賜わり尊氏と改名、しかし、尊氏の目標である征夷大将軍の地位は護良親王に渡り、尊氏は奉行所を解散せず、地方の武士を糾合した。天皇も尊氏の存在が無視できないほどになり、参議まで進んだ。尊氏は天皇に迫って護良親王を逮捕することになり、護良親王を鎌倉へ直義が同行した。1335(建武2)北条時行の乱鎮圧のため鎌倉へ下り、直義は護良親王を殺した。時行鎮圧の後も鎌倉に残り、直義が新田義貞誅伐の檄文を諸国に伝えた。それは建武政権に背くことになり、天皇は尊氏討伐を新田義貞・北畠顕家とともに鎌倉へ向かい、直義が敗れると尊氏は重い腰を上げ、義貞を箱根で破り上京した。翌年京で北畠顕家らに敗れ、九州に落ちたが、その途中で持明院統のある光厳上皇の院宣を受けていた。再び東上して湊川に楠木正成らを破り、京都に入って光厳上皇の弟である光明天皇を擁立、三種の神器は後醍醐天皇からわたった。後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を立てた。建武 3年 11月 7日『建武式目』を制定した。これをもって室町幕府の誕生を意味した。尊氏は清水寺で願文を納めて政務を直義に託したいとした。 1338(延元3・暦応1)征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開設し、。後醍醐天皇は吉野にのがれ、南北朝の乱となる。室町幕府の実権は尊氏にあり、直義は庶務に負われてた。のち尊氏の執事高師直と直義の対立が激しくなり、貞和 3年 (正平 2、 1347)南朝の攻勢が開始され、師直は破り、その勢いは直義を討とうとした。尊氏は直義を退け、師直に実権を握らせた。その頃尊氏の子直冬は直義の養子となり、中国地方の管轄にあたっていたが師直は直冬を九州に追いやり直義の引退をせまった。直義は出家したが観応元年 (正平 5、 1350)10月、南朝に講和を申し入れ、南軍の協力を得て師直誅伐の軍を起こした。直冬が中国地方に勢力を回復したため尊氏は京を離れた。その隙に直義は京に入り後村上天皇を奉じた。尊氏は直義が優勢と見ると直義と和を結んだが、しかし直義に高師直やその兄弟を殺害された。尊氏と直義とのこの十数年の動乱を観応の擾乱という。尊氏は勢力を盛り返し直義を北陸に追いやり、南朝に一時降服し自ら直義を追い鎌倉で討つため鎌倉に行き、そして直義は鎌倉で降服し尊氏は直義を殺した。その後、戦は続き、平穏な時は無かった。そんななかの直冬の九州における反抗を鎮圧する計画していたころに病死した。法号は等持院仁山妙義、鎌倉では長寿院という。禅僧夢窓疎石に帰依し、天龍寺のほか全国に安国寺利生塔を建立した。