足利基氏
| ID | word | kana | meaning |
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| 256 | 足利基氏 | あしかがもとうじ | 1340-1367(興国1・暦応3-正平22・貞治6)南北朝時代の武将。はじめ左馬頭、のち左兵衛督。尊氏の子。1349(正平4・貞和5)嫡兄義詮にかわって初代鎌倉公方となり、父尊氏と養父直義の不和(観応の擾乱)となり、その影響は関東へも波及した。基氏は安房に陰住し、尊氏、直義の和により鎌倉に入ったが、直義の毒殺により、直義党の上杉憲顕は、反尊氏の旗色を明らかにし、また南党新田義宗・義興らは、宗良親王を奉じて上野から南下して武蔵・相模を侵し、またたくまに鎌倉を奪った。尊氏は南党(新田氏)と直義党と対峙しながら、武蔵野合戦で戦った。この時、基氏は尊氏と行動をともにし、のち、鎌倉に戻り、文和 2年7月まで尊氏とともに鎌倉におり、のち、尊氏の命により執事畠山国清を連れて武蔵の入間川に向かい6年間そこに陣を張った。時に入間川殿ともいわれた。新田義興の謀殺事件により、旧直義党と南党の多くの関東武士が、基氏の陣営に参集した。尊氏が没すると次期将軍の義詮と不和にならないように気を使った。延文 4年・ 5年関東の多くの将兵を遠く京畿に送って義詮を援助したのはそのあらわれだった。この時、畠山国清は基氏の期待に背き、将兵の信頼を失い、ついには基氏に反旗を翻した。基氏は伊豆で討ち、関東から追放した。執事の後任に上杉憲顕を復任した。基氏は憲顕に反抗する勢力を攻撃し、みずから関東経営の陣頭指揮をとって諸政策を断行した。 |