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行基 ぎょうき

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3775 行基 ぎょうき 668-749(天智7-天平感宝1・天平勝宝1)奈良時代の高僧。和泉大島郡蜂田郷の人。百済系の渡来人。早くから出家してはじめ官寺にはいり道昭・義淵らに法相宗を学んだが、やがて郷里に帰り民間布教に従事。信者の力により、池溝・道橋・布施屋を各地に開いた。彼の行動は、はじめ僧尼令違反として禁じられたが、のち公認されて東大寺大仏建立に協力、大僧正となった。
16779 行基 ぎょうき 668-749 奈良時代の僧。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。高(古)志氏は中国系の王仁の後裔西文(書)氏の分派で、蜂田氏も中国系氏族。行基は天智天皇7年(668)河内国大島郡蜂田郷(のち和泉国、大阪府堺市)の母方の家に生まれ、天武天皇11年(682)出家し、『瑜伽師地論』『成唯識論』をすぐ了解した。慶雲元年(704)生家を清め家原寺とし、布教と開発を展開し、「化を慕ひ追従する者はややもすれば千を以て数ふ、(中略)弟子らを率ゐてもろもろの要害の処に橋を造り陂を築く、(中略)時人は号して行基菩薩と曰ふ」とある(原漢文、『続日本紀』)。彼の布教に対し養老元年(717)の詔は「妄りに罪福を説き、朋党を合はせ構へ、(中略)余物を乞ひ、詐つて聖道を称し、百姓を妖惑す」(同)といい、僧尼令違反とし布教を禁圧した。『行基年譜』に当年の造寺が記される。天平2年(730)大鳥郡の知識(信者集団)経『瑜伽師地論』書写に彼の弟子優婆塞練信を中心に大領日下部首麻呂と男女709人が参加し、日下部郷では行基が神亀元年(724)清浄尼院、天平9年鶴田池院を建てており、鶴田池築造もこのころで、かつ隣の大鳥郷では神鳳寺や布施屋を設けており、知識は造寺写経や農業・交通関係施設づくりに協力し、郡司をつかむと『続日本紀』にいう1000人ぐらいの知識を集めるのは困難でなかった。天平3年の詔で彼の弟子優婆塞・優婆夷の一部に出家を許したのはまえの禁圧に比し大きな変化で、政府は天平4年前後の狭山下池築造に彼の技術や農民を組織する力量を利用したらしく、豪族の墾田開発や民間仏教形成の要望を抑えきれなかった。彼は40余の寺を五畿内に建て、年別では天平3年の8寺が最も多い。「天平13年辛巳記」(『行基年譜』所収)には彼が河内・和泉・摂津・山背で築造・修理した池15・溝6・堀4・樋3・道1・橋6・船息2・布施屋9の所在と規模が記され、伝道と結びついた大規模な土木事業展開は三段教の影響かといわれる。菩薩と呼ばれ、社会的信望を集めた彼は天平15年大仏造営の勧進に起用され、17年大僧正に任ぜられ、19年河内の河俣人麻呂による銭1000貫寄進などは行基勧進の効果であるが、行基は大仏鋳造中の天平勝宝元年(749)2月2日菅原寺(奈良市)で入滅し(82歳)、墓は竹林寺(奈良県生駒市)にある。彼が営んだ大野寺(堺市)の土塔は土盛りの仏塔で、久米田池(大阪府岸和田市)の現貯水面積は約19万坪である。最澄は『顕戒論』に大乗寺の例に行基のいわゆる49院をあげている。行基研究の史(資)料では、「天平13年辛巳記」は菅原寺牒にあたるといわれ、「行基墓誌」(「大僧上舎利瓶記」や「大野寺土塔人名瓦」とともに価値が高く、ほかに『続日本紀』『日本霊異記』『扶桑略記』『行基菩薩伝』『行基菩薩行状絵伝』などがあり、彼が営んだ寺や農業・交通関係施設の遺跡の一部は発掘・調査されている。 行基墓誌 嘉禎元年(1235)8月25日大和国平群郡有里村(奈良県生駒市)の竹林寺行基墓から発掘された金銅製円筒形の舎利(行基遺骨)容器の残欠。奈良県立博物館蔵。縦10cm、横6.7cm、厚さ0.6cmの不正三角形(内側に0.3cmの反り)を呈し、幅約2.1~2.2cmの縦罫の行間に刻された銘は4行にわたる18字であるが、発掘時の注進状に添えられた「大僧上舎利瓶記」(唐招提寺蔵、後掲の△印は墓誌残欠所見の字)によれば全文は17行309字(1行20字)から成り、行基の死の直後に弟子真成が記したもので、大鳥郡を「河内国」(のち和泉国に含まれる)とすることや「天平廿一年」(749、この年は二度改元され、天平感宝元年、天平勝宝元年となる)とすることなど書法は厳密で、行基の法諱・家系・出家年代・享年などは『続日本紀』の伝記を補う。墓では銀製骨蔵瓶を在銘金銅製円筒に入れ、さらに円形銅筒に納め、八角石筒内に安置していた。 大僧上舎利記 和上法諱法行一号行基薬師寺沙門也俗姓高志氏厥考諱才智字智法君之長子也本出於百済王子爾之後焉厥妣蜂田氏諱古爾比売河内国大鳥郡蜂田首虎身之長女也近江大津之朝戊辰之歳誕於大鳥郡至於飛鳥之朝壬午之歳出家帰道苦行精勤誘化不息人仰慈悲世称菩薩是以天下蒼生上及人主莫不望塵頂礼奔集如市遂得 聖朝崇敬法侶帰服天平17年別授大僧上之任並施百戸之封于時僧綱已備特居其上雖然不以在懐勤苦弥厲寿八十二廿一年二月二日丁酉之夜右脇面臥正念如常庵終於右京菅原寺二月八日火葬於大倭国平群郡生馬山之東陵是依遺命也弟子僧景静等攀号不及瞻仰無見唯有砕残舎利然尽軽灰故蔵此器中以為頂礼之主界彼山上以慕多宝之塔 天平廿一年歳次己丑三月廿三日 沙門真成