空海
| ID | word | kana | meaning |
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| 4015 | 空海 | くうかい | 774-835(宝龜5-承和2)平安初期の僧。真言宗の開祖。俗姓佐伯氏。諡号弘法大師。讃岐の人。18歳の時大学で外典を学んだが、儒・仏・道3教のうち、仏道が最もすぐれているとして出家。804(延暦23)入唐。806(大同1)帰朝。東寺(教王護国寺)を賜わって真言道場とし、816(弘仁7)高野山に金剛峰寺を開き、真言密教の高揚につとめた。私立学校綜芸種智院を開設、書道でも三筆の一人として名高い。[全集] |
| 16844 | 空海 | くうかい | 774-835 平安時代前期の真言宗僧。宝亀5年(774)、讃岐国多度郡弘田郷屏風浦(香川県善通寺市)に誕生。父は佐伯田公、母は阿刀氏。幼名を真魚といい、また貴物と称ばれた。延暦7年(788)入洛、外舅阿刀大足(伊予親王の文学)に就いて文書を習い、10年、大学に学んだが、時に一沙門から虚空蔵求聞持法を示され、経説実修にために阿波の大滝岳・土佐の室戸崎などの地において勤行を重ねた。16年帰洛、『三教指帰』3巻を撰して、儒・道・仏三教の優劣を論じ、仏教こそ最勝の道であるとした(別に同時撰述の空海自筆本が『聾瞽指帰』1巻(金剛峯寺蔵、国宝)として伝えられ、序文と末尾の十韻の詩が異なるほか、本文に多少の出入があり、また若干の自注が施されている)。空海の出家得度の年時については、延暦11年・12年・14年・17年・22年・23年と異説が多いが、『梅園奇賞』所載の延暦24年9月11日付の太政官符、また『中村直勝博士蒐集古文書』所収の同官符案には、延暦22年4月7日出家の文字がみえ、『続日本後紀』所載の空海伝また「年卅一得度」と記すから(この書は空海63歳示寂とするから、年三十一は延暦22年にあたる)、今は延暦22年出家説に従う。受戒についても延暦14年・22年・23年などの諸説があり、ここでは23年説を採るよりほかはないが、いずれにしても入唐を目前に控えて慌しい得度進具であったとしなくてはならぬ。事実、この『三教指帰』の撰述から入唐までの数年間は、空海伝の中で最も謎の多い部分であるが、ただその間に大和の久米寺東塔下において『大日経』を感得したという所伝は注目される。空海入唐の直接の動機は、まさにこの経の秘奥を探ろうとするところにあったからである。延暦23年5月12日、空海は遣唐大使藤原葛野麻呂に従い、第一船に乗じて難波津を発し、同7月6日、肥前国松浦郡田浦から渡海、月余にして8月10日福州長渓県赤岸鎮巳南の海口に著いたが、さらに福州に廻航、10月3日、州に至った。11月3日、州を発して上都に赴き、12月23日、長安城に入る。翌24年(唐、永貞元年)2月10日、大使らは長安を辞して明州に向かったが、空海は西明寺の永忠(日本の留学僧、この年帰朝)の故院に留住せしめられ、以後城中の諸寺を歴訪して師依を求め、青竜寺の僧恵果に遇って師主とすることを得た(恵果は、不空三蔵付法の弟子、三朝の国師と称せられた唐代密教の巨匠である)。空海は、恵果に就いて発菩提心戒を受け、青竜寺東塔院の灌頂道場において受明灌頂に沐し(6月13日胎蔵界、7月上旬金剛界)、ついで伝法阿闍梨位灌頂に沐して(8月上旬)、遍照金剛の密号を受けた。恵果は、さらに両部大曼荼羅図十舗を図絵、道具・法文などを新造・書写せしめて空海に付嘱し、また仏舎利など十三種物を授けて伝法の印信としたというが、この年12月15日、60歳をもって示寂。空海は、その建碑(翌大同元年(806)正月17日)にあたって碑文を撰し、みずからこれを書いた。一方、空海は、この年、長安の醴泉寺において、罽賓国の僧般若三蔵、北印度の僧牟尼室利三蔵からも学ぶところがあり、般若三蔵からは新訳の『華厳経』その他を付嘱されている。また、書家・詩人としての声名も、すでにその間に揚がっていたようである。大同元年(唐、元和元年)正月、遣唐判官高階遠成は、空海および橘逸勢らとともに帰国せんことを唐朝に奏し、認められたが、空海辞京の日は詳らかでなく、ただ4月には越州にあり、その節度使(浙東観察使)に書を送って内外の経書を求めている。明州からの解纜は8月としてよく、筑紫繋帆の日時については異説が多いが、『御請来目録』巻首の上表文に、大同元年10月22日の日付がみえるから、少なくともこの日には宰府の地にあったことが知られよう。この請来目録の内訳は、新旧訳経142部247巻、梵字真言讃等42部44巻、論疏章等32部170巻、図像等10舗、道具9種、阿闍梨付嘱物13種から成り、目録は高階達成に付して進献されたものである(最澄書写の本が今に伝えられている。教王護国寺蔵、国宝)。宰府の地にあった空海は、大同2年4月、筑前の観世音寺に留住せしめられ、ついで請来の法文・道具・曼荼羅などを具して上洛したといわれるが、実際に京洛の地を踏んだのは同4年7月に入ってからのことで、それまでは和泉の槙尾山寺にとどまっていたと思われる。入京後は高雄山寺に住した。8月、最澄は空海に書を寄せて、請来の法文12部の借覧を請い、ここに最澄との交友が開かれる。10月、嵯峨天皇の勅によって「世説」の屏風両帖を書いて進献し、爾後、高名の書家・詩人として厚く遇せられるに至った。一方、弘仁元年(810)10月、空海は上表して、高雄山寺に鎮国念誦の法門の実修を請うたが、これは輒く聞かされなかったらしい。また、この年、東大寺の別当に補せられたというが未詳。2年10月には高雄山寺の地は不便なりとして乙訓寺に住せしめられ、ついで同寺の別当に補せられている。翌3年10月、最澄はこの寺に空海を訪れて付法の約諾を得、空海また高雄山寺に還住して、翌11月15日、最澄らのために金剛界結縁灌頂を行なった。胎蔵界結縁灌頂は12月14日(空海自筆の『高雄山灌頂歴名』が今に伝えられている。神護寺蔵、国宝)。最澄と空海との交友は、4年11月の『埋趣釈経』の借請、7年5月の泰範離反などの問題から、急速に冷却するに至ったといわれるが、その間、空海自身としても、積極的に密蔵法門流布の意を明らかにし、6年4月、いわゆる「勧縁疏」を草して東国の国守や名僧らに送り、秘密経典の書写を勧め、7年6月には新たに修禅の道場建立の地として高野山の下賜を請い、7月聴されていることが注目される。顕密二教の優劣浅深を論じた教理の書、『弁顕密二教論』2巻の撰述がまたこの時期に懸けられていることもゆえなしとしない。空海がみずから高野の地に赴いて禅院の経営にあたったのは9年の冬になってからであるが、10年5月、鎮守神を勧請し、壇場などの結界を行なった。7月、中務省に入住(のちの真言院という)、月余にして高雄山寺に還った。このような動きの間にも、詩文の世界に対する空海の沈潜は深く、『文鏡秘府論』6巻の撰述を竟え、11年5月、その玄要を抄録して『文筆眼心抄』1巻を作っている。12年9月、入唐請来の両部曼荼羅および真言七祖などの影像26舗を修補し、新たに影像の賛文を撰して供養を行なったが、『真言付法伝』(『略付法伝』)の撰述がまたこのときに懸けられる。密教付法の本義と師資相承の系譜を明らかにしたもので、ほかならぬ空海その人の独自の立脚地を示したものである。とすると、先の『二教論』とこの『付法伝』との間に『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』三部の教義書の成立を考えることも可能になってくるのではないかと思われ、真言宗開立の基礎的な条件はすでにこの間に成熟しつつあったことがうかがわれる。13年2月、東大寺南院に灌頂道場を建立、空海をして夏中および三長斎月に息災増益の法を修せしめられたが(公的修法のはじめ)、この年にはまた、平城上皇が空海を師として入壇、灌頂を受けている。そして翌14年正月、空海は東寺を給預され、密教の道場としてこれを経営することになる。4月、淳和天皇即位。空海は賀表を上っているが、事実、爾後の空海の活躍は、一にこの天皇の庇護に負うところが大きかった。10月、『真言宗所学経律論目録』(『三学録』)を進献、東寺に真言宗僧50人を住せしめ「道は是れ蜜教なり、他宗の僧をして雑住せしむること莫れ」(原漢文)という官符を得たのは、その第一歩であり、同月、皇后院の息災法、12月、清涼殿の大通方広法と、公的の修法に請ぜられることが多くなった。翌天長元年(824)2月には神泉苑に請雨経法を修し、その功によって少僧都に直任(3月)、空海は辞したが聴かされなかった。9月、高雄山寺を定額とし、神護国祚真言寺と称して、ここにも真言を解する僧14人が置かれることになる。大和の室生寺を再興して真言修法の道場としたのもこの年に懸けられる。4年5月、大僧都に昇任、5年12月、綜芸種智院を創立、道俗二種の師を請じて、貴賤貧富にかかわらず、宜に随って教授でんことを企図した(院は承和12年(845)廃絶)。空海の生涯の書というべき『秘密曼荼羅十住心論』10巻とその略本『秘蔵宝鑰』3巻の二著は、いずれも天長7年、淳和天皇の勅を奉じて撰進されたものといわれ、菩提心発現の過程を十種の段階(住心)に分類、顕教諸宗をそれぞれの住心に位置づけるとともに、真言宗独自の立脚地を明かした画期的な教理の書である。翌8年6月、空海は病によって大僧都を辞せんとしたが聴されず、9年8月には高野山にあって万燈・万華の二会を修したことが知られるが(金剛峯寺の称呼もこの間に定められた)、11月からは「深く穀味を厭い、もっぱら坐禅を好む」といわれ、爾後、高野山隠棲の日がつづいた。その間、承和元年12月、毎年宮中正月の御斎会(金光明会)に、別に真言の法によって結壇修法せしめられんことを奏請して聴され(後七日御修法の起源)、また東寺の経営にも心を配るところがあったが、翌2年正月、真言宗年分度者三人の設置が認められ、空海の素志は、ほぼここに果たされたといえよう。しかし、この月から空海の病は篤く、3月21日、62歳をもって高野山に示寂した。延喜21年(921)弘法大師の諡号を与えられる。ときに高野大師ともいわれる。空海の著者として注目すべきものに、先述のほかに『篆隷万象名義』30巻があり、撰述の年時を詳らかにしないが、わが国最古の辞典と称すべきもので、高山寺に永久2年(1114)書写の6帖本(国宝)が伝えられている。またその詩文は『遍照発揮性霊集』10巻(真済編・済暹補)、『高野雑筆集』2巻、『拾遺雑集』などに収められている。これら著作は、密教文化研究所編『弘法大師全集』全8巻、勝又俊教編『弘法大師著作全集』全3巻などに収録されている。書蹟としては先に掲げたもののほか、在唐中の筆録にかかる『三十帖策子』(一部分は橘逸勢の筆という。仁和寺蔵、国宝)、最澄との交友を物語る『風信帖』(教王護国寺蔵、国宝)などが挙げられよう、これらは『弘法大師真蹟集成』に収められている。 |