光明皇后
| ID | word | kana | meaning |
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| 4860 | 光明皇后 | こうみょうこうごう | 701-760(大宝1-天平宝字4)聖武天皇の皇后。父は藤原不比等、母は県犬養橘三千代。名は光明子・安宿媛。729(天平1)それまでの伝統を破り、臣下にして皇后となる。730皇后宮職に施薬院を設置し、毎年諸国に命じて、職封と大臣家封戸の庸物で、薬草を買い取り上納させた。聖武朝の仏教興隆は皇后の力によるところで大であるといわれる。自筆と伝える「楽毅論」が正倉院に伝存。 |
| 17100 | 光明皇后 | こうみょうこうごう | 701-760 聖武天皇の皇后。大宝元年(701)藤原不比等の三女として誕生。母は県犬養三千代。名は安宿媛、また光明子とも伝えている。幼少のときから聡敏であったという逸話がある。霊亀2年(716)皇太子首皇子の妃となり、やがて神亀元年(716)皇子が即位して聖武天皇となると、彼女は夫人となった。同4年皇子が生まれ直ちに立太子したが、期待を裏切って翌年夭折した。ついで長屋王の変のあと、天平元年(729)8月それまでの慣習を破って臣下として皇后となった。その邸宅は父不比等の旧廷で平城宮の東に接していたが、ここを皇后宮とした(のち法華寺となる)。皇后はよく天皇を輔けて各方面に活躍し、いわゆる天平文化の発展に寄与するところが多かった。仏教に関してみると、興福寺に五重塔・西金堂を造営し、皇后宮に宮寺すなわち法華寺を創立し、天皇の病気平癒を祈って新薬師寺を造立し、また大規模な一切経の書写事業も行なった。このほか東大寺大仏の造顕は皇后の勧めによるものといわれ、国分寺の造営とくに尼寺の併置は皇后の関与するところであったと考えられる。皇后はまた社会救済事業にも尽くした。まず立后の翌年(天平2年)皇后宮職に施薬院をおいて薬草を病人に施し、同じころ孤児を収容する悲田院を設けた。こうした救済事業に関し、皇后が貧しい病人の垢を洗い、らい病患者の膿を吸いとったという話が伝えられている。皇后はまた天平の政界の焦点の一つでもあった。藤原氏の輿望を担って立后した皇后であったが、天平9年の疫病で武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4人の兄弟を失い、同12年には宇合の子広嗣が反乱(藤原広嗣の乱)を起して、藤原氏の勢力は一時衰えた。その間、皇后の異父兄にあたる橘諸兄が政権を握ったが、やがて武智麻呂の子仲麻呂が皇后の庇護のもとに台頭した。そのころ聖武天皇は病気がちで、皇后が事実上宮廷に重きをなしたが、天平勝宝元年(749)その娘阿倍内親王が即位した。孝謙天皇である。そして光明皇后に付属する皇后宮職は拡大強化されて紫微中台と改められ、仲麻呂はその長官として太政官の権限を奪うほどの力をもったのである。天平勝宝8歳5月2日聖武太上天皇が崩じ、その七七忌の6月21日、光明皇太后は先帝の遺品の数々を東大寺に施入した。この献納物が今の正倉院宝物の中心であって、天平文化を知る貴重な文化財であるが、これらはまた天皇と皇后の私的生活の片鱗をうかがうに足る遺品でもある。特に『楽毅論』『杜家立成雑書要略』の2巻は皇后の筆で、その剛気な筆勢は皇后の性格を想起させるものがある。天平宝字2年(758)中台天平応真仁正皇太后の尊号が奉られ、同4年3月病床に伏し、6月7日崩じた。ときに年60。大和国添上郡佐保山東陵に葬られた。 |