兀庵普寧
| ID | word | kana | meaning |
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| 17188 | 兀庵普寧 | ごったんふねい | 1197-1276 鎌倉時代に来朝した臨済宗楊岐派の禅僧。諱は普寧、字は兀庵。中国、西蜀(四川省)の人。慶元3年(1197)に生まれる。はじめ儒学をうけたが、のち出家して唯識などの教学を修めること数年、ついに禅に転じ、蔣山の痴絶道冲、ついで阿育王山の無準師範の門に投じ、さらに無準に従って径山に移り、ついにその法を継いだ。のち霊隠寺・天童寺の首座を勤めたあと、慶元府の霊岩寺、常州の南禅寺に住したが、文応元年(1260)旧知の間柄であった蘭渓道隆や円爾などの招きをうけて来朝し、博多の聖福寺に入った。ついで上京して、東福寺の円爾と旧交を暖めたが、北条時頼の要請をうけて建長寺2世となった。ときに、建長寺の本尊は地蔵菩薩であるから、仏である自分より下位であるというので、ついに仏殿を礼拝しなかったと伝えられる。この後、時頼は兀庵について熱心に参禅問法をかさね、弘長2年(1262)10月16日朝、ついに悟りを開いて、兀庵から印可証明をうけている。しかし、時頼の死後、格調高いその禅風のよき理解者が得られず、しかも門徒の間で争い事が起きたため、嫌気がさして、文永2年(1265)日本人景用を伴って、在留わずか6年で帰国してしまった。その後、婺州の双林寺、温州の江心寺などに住した。至元13年(1276)11月24日寂。寿80。宗覚禅師と勅諡された。著作に『兀庵和尚語録』1巻がある。弟子に東巌慧安・南洲宏海・天外志高らがいる。その滞在期間はわずかに数年間にすぎなかったが、大陸禅宗界の第一級の禅匠に接することができたということは、わが禅林のその後の発展にとってきわめて貴重な刺戟となった。 |