退耕行勇
| ID | word | kana | meaning |
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| 7493 | 退耕行勇 | たいこうぎょうゆう | ?-1241(仁治2)鎌倉時代の臨済宗の僧。退耕は号、別号荘厳房。はじめ真言宗の僧として鶴岡八幡宮の供僧、鎌倉永福寺・大慈寺別当。のち明庵栄西に禅と台密を学びその法を継いだ。1219(承久1)高野山に上り道範に東密を学ぶ。北条政子の帰依を受け高野山に金剛三昧院を開き禅・密兼修道場とした。また東大寺大勧進となり、鎌倉に東勝寺・浄妙寺を開き、寿福寺で死去。 |
| 18134 | 退耕行勇 | たいこうぎょうゆう | 1163-1241 鎌倉時代の兼密禅僧。道号退耕、諱は行勇。別号荘厳房。長寛元年(1163)、相模国酒匂(神奈川県小田原市、一説に京都)の生まれで、姓は不詳。幼年出家、鶴岡八幡宮の供僧となり永福寺・大慈寺の別当をつとめた。源頼朝・政子の帰依あつく頼朝の死後、政子の剃髪の戒師となる。正治2年(1200)栄西の鎌倉下向後、その門に入り嗣法した。建永元年(1206)栄西のあとを受けて東大寺大勧進職となる。源実朝はたびたび行勇を寿福寺に訪ねて仏事法談を行なった。その実朝の冥福を祈るため紀伊国高野山の禅定院(のち金剛三昧院と改名)に入り同院を兼修禅の道場とした。政子は同院内に多宝塔を建て供養を営み、鎌倉幕府は同院を通じ高野山との関係を深めた。延応元年(1239)金剛三昧院を仏源房隆禅に譲り鎌倉に下向、浄妙寺・東勝寺に住した。『法燈円明国師行実年譜』によると阿波国に清浄寺を開き、また日竜寺を兼務して禅規を広めたという。仁治2年(1241)7月15日(一説に7月5日)東勝寺に没し同寺に塔した。寿79.師は栄西同様、純然たる禅僧でなく、加持祈祷を行う密教的色彩が濃い。上野国世良田長楽寺の釈円房栄朝とともに栄西門下の双璧といわれる。行勇の弟子、大歇了心は入宋して禅林の規矩を習学し日本に禅規を広め、兼修禅の色彩をぬぐい禅宗的色彩を明確にした。 |