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廃仏毀釈 はいぶつきしゃく

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18746 廃仏毀釈 はいぶつきしゃく 仏教寺院や僧侶を排斥する思想や行動。廃仏毀釈が全国的な運動として展開するのは明治初年であるが、江戸時代にも小規模ながら各地で行われている。江戸時代の廃仏毀釈で有名なのは、寛文6年(1666)-7年会津藩主保科正之・水戸藩主徳川光圀・岡山藩主池田光政らが、いずれも領内寺院のほぼ半数を破却し、数多くの僧侶たちを還俗させ帰農させた政策である。この三藩に共通する思想は儒教である。江戸時代寺請制度により檀家を寺院の経営基盤とした僧侶たちは自宗の信仰はもとより、教学や修行に対する厳しさをなくし、信仰抜きの民衆収奪に専念した。当然のことながら識者の批判の的となり、右の三藩ほどではないが、廃仏毀釈の思想は全国各地に伝播していった。近世中後期の廃仏論者の数は枚挙にいとまがないほどである。一方民衆の批判は各地に数多く散在する庄屋(名主)日記に垣間みることができる。このことから廃仏毀釈の思想が民衆にかなり広範囲に定着していることがわかる。このような動きに対して、各藩に残存している史料をみる限りにおいても、藩の法令の中に、寺院僧侶の生活の華美に対する批判、堂塔伽藍の寄付の制限、墓石の寸法の制限、戒名料の制限、洲宗祖に遠忌の寄付の制限、葬祭への出費の制限などがみられ、おびただしい統制がくり返されている。僧侶は民衆がキリシタンでないと保証する寺請証文を書くこととひきかえに、さまざまな要求を民衆に課しているが、これが逆に民衆の廃仏毀釈思想をますます強めることにつながっていった。岡山藩では全領域内で寺請証文の作成を廃止し、すべて領民に神道請証文を神主の手で作成させている。それゆえかなりの寺院が経営不振となり廃寺に追い込まれている。水戸藩においても武士に限ってはいるが、、葬祭を仏式から儒式に替えている。武士を檀家とした寺の多くは経営不振に陥っている。また、全国の神社の神主たちは、近世中後期には仏葬祭をやめ神葬祭を行なっている。さらに神主本人のみならず家族に至るまで神葬祭に替えている例がかなりみられる。近世後期になると、国学の影響をうけた地域では神葬祭が増加し、神主のみではなく家族さらには周辺の民衆に至るまで、仏葬祭を捨て神葬祭に替えているところが多い。また水戸学の影響をうけたところでは、戸籍の台帳として、僧侶が寺請をする宗門人別帳をやめ、神主が神道請をする氏子帳に切り替えている。また水戸藩では、天保年間(1830-1844)には領内の大寺を破却し、それに伴い末寺も廃寺に追い込んでいる。また領内全寺院から撞鐘を徴収し、大砲の材料にあてている。この時は民衆も積極的に寺院破却に協力している。このように幕末には、これまで際限なく収奪していた寺院僧侶に対して徹底的に批判がなされることになった。幕藩領主はもとより儒者・国学者・水戸学者・神道学者たちの批判の矛先はきわめてするどく、また批判される仏教者の側にも寺院の現状に対する批判・反省を強調する者がでてきたことはいうまでもない。このような時期、すなわち明治元年(1868)明治政府は神仏分離令を施行した。しかも政府の神祇事務局の指導者たちの多くは、復古神道を信奉する者であったため、当然敬神廃仏すなわち廃仏毀釈に赴いた。この時点では江戸時代の仏教国教が神道国教に急旋回し、伊勢神道を頂点とする神道国教化政策が着々と推進されていった。一方寺院僧侶から収奪の限りをつくされていた民衆も廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・什物などの破却・焼却に手を貸した。当時の廃仏毀釈の実態は、ごくその一部ではあるが、村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編『(明治維新)神仏分離史料』に紹介されている。全国で破却され廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数といわれているが、現在までに調査・研究でがその総数はまだ把握できない。明治元年より9年ごろまで全国各地の寺院の破却が続き、今となっては、数多くの貴重な古文書・文化財が失われる結果となった。まさに焚書坑儒の日本版といえる。明治6年にキリスト教禁止令が解かれると、寺院が握っていた寺請の権限はなくなり、檀家への支配の法的根拠はなくなった。明治5年の壬申戸籍には氏神・氏寺が形式的ながら並列されてはいるが、明治初年廃仏毀釈の運動が特に強かった地域は、苗木藩・松本藩・富山藩・津和野藩・鹿児島藩などである。いずれも藩主みずから廃仏毀釈の思想をもっており、徹底した寺院破却を行なっている。一方で神社を積極的に保護している。国家神道の頂点である伊勢神宮の周辺においても徹底した寺院破却が行われた。また奈良・京都・滋賀・鎌倉の大寺院においてもきびしい廃仏毀釈が行われている。さらに見落としがちではあるが、江戸時代に民衆の熱狂的信仰に支えられた各地の霊場信仰・山岳信仰の中心であった山伏やその寺、また禅宗の一派として大勢力を誇った普化宗はこの時期すべて姿を消されてしまった。民衆信仰に対する大弾圧が廃仏毀釈の名のもとに行われた。以上のように、廃仏毀釈運動は江戸時代の信仰をくつがえすとともに、国家神道推進の強力な思想として展開していった。