詳細メモ

無学祖元 むがくそげん

IDwordkanameaning
11672 無学祖元 むがくそげん 1226-1286 宋の禅僧。号は仏光円満常照国師。会稽の人。無準師範に参禅。1279(弘安2)北条時宗の招請により来朝。時宗の信仰あつく、建長寺住持となり、1282円覚寺開山となった。在住8年、建長・円覚両寺を兼管した。弟子に高峰顕日・規庵祖円らがある。
19172 無学祖元 むがくそげん 1226-1296 鎌倉時代に渡来した臨済宗破庵派の僧。道号は無学、法諱は祖元。はじめ子元と号したが、のち無学と自称した。宋国明州慶元府鄞県の人、父許氏と母陳氏との間に宝慶2年(1226)に生まれた。7歳にして家塾に入って習学したが、13歳で父を失ったので俗兄の仲挙懐徳に従って浄慈寺に赴き、北礀居簡について剃髪受戒して祖元と安名された。喜煕3年(1239)に径山に登って無準師範に参じ、狗子無仏性の公案に参じて5年、ようやく悟人の境地に至って投機の偈を無準に呈した。淳祐8年(1248)霊隠寺の石渓心月に参じ、同11年には育王山に移って偃渓広聞について蔵主を司り、ついで秉払を遂げたが、同12年霊隠寺に移って霊鷲庵に居した虚堂知愚に参じた。諄々と説く虚堂の話にようやく言詮を絶した境地に到達した。再び天童山に帰り、翌宝祐元年(1253)には大慈寺に移って物初大観に参じ、厠・手洗などの掃除係の浄頭を希望した。この間に香厳撃竹の公案に参じ、井楼にあって水を汲まんとして轆轤を引き、その回転の音を聞いて豁然として大悟した。物初の会下で首座となり、ついで四明の慈渓県の羅季勉に請ぜられて東湖の白雲庵に住し、老母を養って孝を尽くして終焉に至るまで7年庵居した。景定4年(1263)冬に師兄の退耕徳寧が霊隠寺に住したので、これを助化して首座となった。咸淳5年(1269)10月2日に、台州の真如寺に請ぜられて赴任したが、宋室の弱体は元軍の侵入を招いたので雁蕩山能仁寺に避乱した。有名な臨剣頌はこの時の作である。至元14年(1272)天童山に帰って環渓惟一のもとで首座となり、その接衆を助けたが、至元16年(弘安2)に北条時宗の使命を帯びた傑翁宗英と無及徳詮が天童山に登って日本来航を促す招聘状を届けた。執権時宗は蘭渓道隆の後任を環渓に求めたのである。環渓は老体を理由に固辞して無学を推薦し、門弟の鏡堂覚円をこれに随侍させた。環渓は本師無準に代わって無学に法衣を付与し、辞衆上堂の後の5月26日に出立し、6月2日乗船して同25日ごろ博多に着岸した。北条氏出身の無象静照は聖福寺にあったが港湾に出迎え、鎌倉建長寺の法座に就いたのは8月21日である。香を無準に焚いて嗣法を表し、日本大衆の接化に着手した。執権時宗は無及徳詮を通訳として無学に参禅したが、弘安5年(1282)12月鎌倉山之内に円覚寺を創めて開山初祖とした。住すること2年にして再び建長寺に帰り、弘安9年9月3日に末後の法を説いて寂した。61歳。荼毘にして建長寺後山に葬った。塔を常照・塔院を正続庵という。のち仏光禅師と勅諡され、さらに貞治2年(1363)5月後光厳天皇より円満常照国師と追諡された。よってこの門派を仏光派という。門弟に一翁院豪・高峯顕日・規庵祖円・大用慧堪・建翁慧鼎・雄峯奇英・見山崇喜・柱澗清輝・雲屋慧輪・頓庵契愚・大古世源・白雲慧崇・弧雲慧約・古倫慧文・無外慧方・無外如大など30余名がある。遺著に『仏光国師三会語録』がある。1巻は台州真如寺の上堂法語、2巻は拈香・秉払・偈頌、3巻は建長寺上堂法語、4巻は円覚寺上堂法語・普説・小仏事、5巻は建長寺普説、6巻は檀那家普説、7巻は法語、8巻は仏祖讃・自賛・偈頌、9巻は拾遺雑録(普説・書簡・偈頌・小仏事・法語・跋・付録・行状・塔銘)、10巻は年譜・塔銘で、行状は浄慈寺住持霊石如芝の撰、竜峯普慈禅寺住持用潜覚明の撰、無象静照の撰の3本があり、塔銘は掲傒斯の撰、無学の俗甥である東陵永璵の撰する正脈院塔銘の2本がある。後年に高峯顕日の法孫である中山法穎が、掲傒斯の撰になる塔銘に、語録などから関連記事を抜粋挿入して編集した『仏光禅師塔銘』もある。『続群書類従』伝部所収と『大日本仏教全書』所収の10巻目はこれである。語録は五山版・寛文版・宝永版・享保版などがあり、『国訳禅宗叢書』14、『(大正新修)大蔵経』80などにも収められる。