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夢窓疎石 むそうそせき

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11696 夢窓疎石 むそうそせき 1275-1351(建治1-正平6・観応2)鎌倉末期・南北朝時代の禅僧。伊勢の人。はじめ天台・真言を修学、のち禅宗に帰し一山一寧・高峰顕日に就学。春屋妙葩以下の俊秀を養成して臨済宗の黄金期を築いた。甲斐恵林寺、京都天竜寺などを建立。南禅寺住職2回。北条貞時・後醍醐天皇・足利尊氏など公武の篤信を受け7代の天皇から国師号を贈られた。また西芳寺・天竜寺・瑞泉寺・恵林寺に残る卓抜な造園技術は有名。著書「夢中問答集」「臨川寺家訓」など。
19182 夢窓疎石 むそうそせき 1275-1351 鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧。道号は夢窓、法諱は疎石、別に木訥叟と称した。伊勢の人。宇多天皇9世の孫で母は平氏。建治元年(1275)に生まれる。弘安元年(1278)に母方の一族に紛争が起り、父は家を挙げて甲斐に移り、8月に母は没した。同6年父に従って同国平塩山寺の空阿大徳について出家を志し、ややあって剃髪したが正応5年(1292)に叔父の明真講師を頼って南都に赴き、慈観について登壇受戒した。再び平塩山寺に帰って新戒の位にあったが、永仁元年(1293)に天台教学を説く明真の死に逢い、多聞博学な僧でも死に臨んで一字も説かず、仏法の大意を悟ることができなかったのだと知り、密かに教外別伝の禅宗に関心を持った。道場を結界し仏像を安置して百日の祈祷に入り、仏の指示あらんことを願った。満期を3日残す日の夕刻、夢に異人が現われて疎山と石頭山に案内し、長老より達磨半身の像を与えられ、目が覚めた。これによって禅宗に縁あるを知り、永仁2年に京都を経て紀伊の無本覚心に参じようとしたが、知人の徳照に逢い、大方叢林にあって規矩を学んだ後でも遅くはないといわれ、その指示を受けて建仁寺の無隠円範に参見し、法諱を智と安名され、のちに法諱を疎石、道号を夢窓と自称した。永仁3年10月に鎌倉東勝寺の無及徳詮に参じ、ついで建長寺の葦航道然に、永仁4年には円覚寺の桃渓徳悟の会下に転じ、その指示で再び建長寺の痴鈍空性に参じて禅客となった。翌年建仁寺の無隠円範の許に戻ったが、正安元年(1299)8月に一山一寧が来朝し、京都の宿所にこれを訪ね、さらに伊豆流罪から建長寺に赴任した一山の名声を聞き、鎌倉に下って一山の会下に連なり、程なく首座となった。翌年秋に羽州の知人を訪ねようとしたが、訃音を聞いて松島寺にとどまり、近隣に住む天台講師の教学を聞いた。12月に那須雲巌寺の高峯顕日に参ぜんとしたが留守のためしばらく滞在した。正安3年2月那須を辞して建長寺の一山の許に赴き、翌乾元元年(1303)冬には一山に付随して円覚寺に転錫した。嘉元元年(1303)日本語を話さない一山との間に、参禅の問話に精緻を欠くので、乾明山万寿寺の高峯顕日の許に移って大いに啓発された。辞して道友の招きを受けて奥州白鳥郷(岩手県胆沢郡前沢町白鳥)に赴き、翌年2月には白鳥を去って内草山に単座した。嘉元3年2月に内草を出て鎌倉に帰る途中常陸臼庭(茨城県北茨城市華川町臼場)に接待庵で、比佐居士なる檀越によって、閑静な小庵を与えられてこれに居し、10月には浄智寺の高峯に再参し、問答数番を交した翌日大いに印可された。即日甲斐に帰って親に見え、ついで檀那の招きを受けて浄居寺の開山となった。徳治2年(1307)高峯の頂相を描いて万寿寺に走って高峯に賛を請い、高峯授けるに無学祖元よりの伝衣を以てした。延慶元年(1308)維那を司り、夏過ぎて辞意を述べると法語一篇を与え、途中建長寺玉雲庵の一山にも別れを告げた。一山与える長偈一篇を授けて送行の餞とした。8月旧業の平塩山寺に登って静達に見え、静達は密教の伝法を迫ったが受けず、翌年那須の雲巌寺に赴いて安否を問い、高峯これを留めて書記に充てた。応長元年(1311)春に人烟を離れた甲斐の山里に竜山庵を構えて居したが、道を求めて集まる僧が多く、このために庵を浄居寺に移した。正和2年(1313)浄智寺にある高峯が、上野長楽寺に推挙しようとすると浄居寺を起って美濃長瀬山(岐阜県多治見市虎渓山町)に古谿庵を構えて隠栖した。文保2年(1318)9月に京都北山に居し、翌年正月には土佐の五台山に入って、吸江庵を構えて北条貞時夫人の招請を断った。夫人は元応元年(1319)に使いを遣わして帰鎌を求めたので、やむなく鎌倉に戻って勝栄寺に住し、ついで同門の太平妙準は夫人を頼んで雲巌寺に請じようとしたので、三浦の泊船庵に移って人烟を断ち、元亨3年(1323)には上総千町荘(千葉県夷隅郡夷隅町)の退耕庵を構えて庵居したが、正中2年(1325)春に後醍醐天皇は南禅寺に請住した。病と称して辞したが、天皇は北条高時を介して再び請じたので、元翁本元を伴って上京した。便殿に座を賜わって宗要を説き、ついで8月29日南禅寺に入寺した。嘉暦元年(1326)7月に北条高時は鎌倉寿福寺に請じたが、避けて伊勢に赴いて善応寺を聞き、那智山を巡拝して鎌倉に帰り、9月には永福寺の傍に南芳庵を創めて庵居した。翌年2月浄智寺に請ぜられたが、辞し難く夏過ぎまで住山して南芳庵に帰り、8月には瑞泉寺を開いて移り、嘉暦3年冬には円覚寺に請住された。固辞したが翌元徳元年(1329)8月に再び円覚寺を以て請ぜられ、同門兄弟も強く勧めるので29日入寺した。百廃ともに興して翌年9月密かに瑞泉寺に逃帰した。門を閉じて訪人を絶ち、ついで甲州牧荘に恵林寺を創めて移り、元弘元年(1331)2月瑞泉寺に帰った隙に北条高時は建長寺に請住した。嶮崖巧安を推挙して翌年春には恵林寺に帰り、この年に播磨に瑞光寺を開いた。同3年正月嶮崖が建長寺を退くと、高時は再び建長寺を以てしたが辞して瑞泉寺にあった。5月に鎌倉幕府は滅び、夢窓は敗走の士卒を兵刃の難から救って過ごしたが、6月10日に後醍醐天皇は足利尊氏に勅して官使を遣わし、夢窓を京都に召した。7月入京して参内し、天皇は臨川寺に居らしめて厚く礼遇した。寺の北に塔亭を創めて弥勒仏を安座し、東に皇子世良親王を祀り、西に開山塔を建てて三会院と称して本拠とした。翌年9月天皇は禁裏に召して弟子の礼を執り、ついで南禅寺再住の詔を下した。建武2年(1335)10月に夢窓国師と特賜されたが、翌年京都に兵乱が起って南禅寺を退き、臨川寺に帰住したがこの年足利尊氏は夢窓を幕府に請じて弟子の礼を執った。暦応2年(1339)『臨川家訓』を定め、4月には西方教寺を改めて西芳寺と号して生来の隠遁性を満喫した。8月16日になると後醍醐天皇は吉野で崩御になり、尊氏は勅を奉じて追善道場を亀山行宮に建て、霊亀山天竜資聖禅寺と称し、夢窓を請じて開山初祖とした。細川頼之は阿波に補陀寺を創めて開山に請じ、光厳上皇は康永元年(1342)4月に衣鉢を受け、高師直もまた正脈庵を拡大して真如寺と号して住せしめた。貞和元年(1345)8月に後醍醐天皇七回忌を以て天竜寺開堂法会を行い、翌年席を無極志玄に譲って雲居庵に退居した。光明天皇は内裏に召して受衣し、夢窓正覚国師と特賜した。貞和5年3月足利直義が、12月に足利義詮が、観応元年(1350)2月に太上、太皇后、皇太后および諸宮妃官女らが受衣したが、翌年7月に僧堂の完成を期して再住し、後醍醐天皇十三回忌を厳修した。光厳上皇は8月15日に院使を遣わして心宗国師と加賜されたが、9月30日に示寂した。77歳。全身を三会院に塔じ、平生の爪髪を天竜寺雲居庵に塔じた。南禅・浄智・円覚・天竜の四会の語録があり、東陵永璵の序があり、跋は楚石梵琦が至正26年(貞治5、1366)8月に記して居り、三百五十回忌の遠忌に刊行した元禄13年(1700)の天竜寺版は、『年譜』『西山夜話』、東陵永璵の撰する『夢窓国師塔銘』、明の宋濂の撰する『夢窓国師碑銘』、『臨川家訓』『三会院遺誡』『西芳遺訓』『末後垂誡』『語録補遺』『七朝国師徽号』などを収めて上・下・拾遺付録の3巻である。五山版のほかに『国訳禅宗叢書』1輯5、『(大正新修)大蔵経』80にも収められている。無極志玄・春屋妙葩・竜湫周沢・青山慈永・徳叟周佐・義堂周信・曇芳周応・絶海中津・無求周伸・方外宏遠・不遷法序・黙翁妙誡・古天周誓・観中中諦・碧潭周皎・古剣妙快・鉄舟徳済ら夥しい門弟がおり、五山派中最大の門派となった。