蘭渓道隆
| ID | word | kana | meaning |
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| 12379 | 蘭渓道隆 | らんけいどうりゅう | 1213-1278 宋の禅僧。諡号大覚禅師。俗姓冉氏。1246(寛元4)来朝、筑前円覚寺、京都泉涌寺・来迎院、鎌倉寿福寺に寓居。1253(建長5)北条時頼に招じられ鎌倉建長寺開山となった。のち京都建仁寺に住したが、再び建長寺に帰った。語録3巻がある。 |
| 19345 | 蘭渓道隆 | らんけいどうりゅう | 1213-1278 鎌倉時代に渡来した臨済宗の僧。道号は蘭渓、法諱は道隆。宋国西蜀涪江郡渓邑の人。嘉定6年(1213)に生まれた。俗姓は冉氏。13歳で成都の大慈寺に投じて僧童となり、剃髪受具の後に講席を歴遊したが、捨て去って江南の禅刹を歴参し、無準師範・痴絶道冲・敬叟居簡に参じ、ついで平江府の陽山尊相禅寺の無明慧性に参じて、牛過窓櫺の公案を授けられて参禅工夫し、ついに堂奥を極めて印可された。のち明州慶元府の天童景徳禅寺にあって日本仏教の盛んなることを聞き、密かに日本渡航の志を懐き、淳祐6年(寛元4、1246)義翁紹仁・竜江応宣・宝山□鉄などの門弟と、商船に乗じて博多に着岸した。博多円覚寺に仮寓の後に、京都泉涌寺の月翁智鏡を頼って上洛し、泉涌寺来迎院の止宿した。やがて鎌倉に下り寿福寺の大歇了心の席下に掛錫した。北条時頼は大船の常楽寺に招き、教寺を禅院に改めて宝治2年(1248)12月入寺させた。時頼は政務の余暇に常楽寺に通参したが、建長元年(1249)に巨袋坂の奥に禅院を創めて蘭渓をこれに請じた。建長寺の濫觴である。住山すること10余年、正元元年(1259)ごろに建長寺を退き、京に登って建仁寺の住持となった。後嵯峨上皇は宮中に召して禅要を問うたが、蘭渓は弘長元年(1261)2月ごろに鎌倉に帰って建長寺東堂寮にでもあって常楽寺・建長寺・建仁寺の三会語録の整理にあたったか、建長寺の当住は兀庵普寧である。文永2年(1265)に兀庵は建長寺を退院して宋国に帰り、蘭渓は建長寺に再住した。文永年間となると元の世祖の使節が来朝して朝貢を求めると、蘭渓は蒙古の間諜との嫌疑を受けて甲州東光寺に配流となり、居る事数年にして再び鎌倉に戻って寿福寺の住持となった。文永11年2月ごろに再び甲州に配され、ついで奥州松島の円福寺に仮寓するなど、甲奥数年にして常陸を通って再び寿福寺に帰り、弘安元年(1278)4月に三度建長寺の主席についた。7月に病となり24日に至って示寂した。66歳。建長寺西来庵に塔じた。北条時宗の奏請によって大覚禅師と勅諡された。よってこの門流を大覚派という。門弟には宋より同航した義翁・竜江・宝山のほかに、葦航道然・傑翁宗英・玉山徳璇・林叟徳瓊・明窓宗鑑・桃渓徳悟・同源道本・無及徳詮・桑田道海・無隠円範・空山円印・若訥宏辯・月峯了然・無絃徳韶・不退徳温・約翁徳倹・痴鈍空性などがある。遺著に『大覚禅師語録』3巻があり、入宋経験のある直翁智侃・禅忍・祖伝らが弘長元年中に蘭渓語録の草稿を携えて入宋し、上天竺霊感観音教寺の仏光法師法照に序をなし、さらに直翁は大川普済に校勘を求め、禅忍は雪竇山に虚堂智愚に参禅した経歴から、これも本録の校勘を虚堂に願った。両人はこれを要略し、虚堂は同5年2月に杭州臨安府の浄慈寺にあってこの旨を述べて跋文とした。四明にあって上梓された『大覚禅師語録』は、直翁などによって蘭渓に呈示された。したがって本録は弘長元年2月以後の寿福・建長再住・甲州東光・松島円福の諸寺に関する語録は含まれない。延享2年(1745)8月に再刻され、ついで文政10年(1827)4月に海津維徳の特志によって、550回の遠諱記念として版行され、また元禄6年(1693)7月に東武の無生の特志によって『大覚禅師拾遺録』が版行された。また蘭渓の行状は虎関師錬の筆になり、『元亨釈書』所収の宋国道隆伝と、『続群書類従』伝部所収の巨福山建長禅寺開山蘭渓和尚行実とは同文の内容である。 |