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円仁えんにん

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2018 円仁 えんにん 794-864(延暦13-貞観6)平安初期の天台宗の僧。諡号慈覚大師、俗姓壬生氏。下野都賀郡の人。15歳の時最澄の弟子となり、838(承和5)入唐、五台山・大興善寺などで学び、847帰朝。延暦寺3世座主に任じ、天台宗山門派の祖となった。著書が多く彼によって天台宗は著しく密教化した。東北地方には彼が開いたと伝える寺が多い。主著「入唐求法巡礼行記」「顕揚大戒論」など。
16432 円仁 えんにん 794-864 平安時代前期の僧。延暦寺第3世座主。天台宗山門派の祖。俗姓壬生氏。延暦13年(794)下野国都賀郡に生まる。幼少のときに父を失い、兄より経史を学ぶ。9歳大慈寺広智和尚に師事し、15歳広智に伴われて叡山に登り、最澄の門下となり、『摩訶止観』を学ぶ。弘仁4年(813)試業に及第し、翌5年得度。最澄よりに伝法灌頂を受け、同7年東大寺で具足戒を受けた。29歳最澄の遷化にあう。叡山の教師となり、法隆寺・四天王寺などの諸寺で開講し、『法華経』を書写し、如法堂を建ててその経蔵とした。承和2年(835)入唐還学の詔を受け、同5年6月請益僧円載らとともに遣唐大使藤原常嗣に従って出発、翌7月揚州海陵県に着いた。その目的は天台山に登り、長安の都に上って天台宗を研鑚することにあった。しかるにその資格還学僧で短期留学のため、天台登山は唐朝より許可されず、やむなく揚州の開元寺にとどまって宗叡に悉曇を学び、全雅に灌頂を受け、両部曼荼羅・諸尊儀軌・仏舎利を伝受した。翌年帰国する遣唐使に同船したが逆風にあって山東半島東端文登県に漂着し、上陸したところ、遣唐使船に乗り遅れ、同地にとどまったが、新羅僧の勧めにより、天台山登山の素志を翻して翌年五台山に登り、志遠和上にあい、『摩訶止観』を受け、天台教迹など37巻を書写し、五台山文殊菩薩の聖跡を巡礼して長安に入る。大興寺翻経院元政阿闍梨に金剛界の大法を学び、五瓶灌頂を受けた。翌年青竜寺義真阿闍梨に『毘盧遮那経』中の真言印契・秘密儀軌・蘇悉地の大法を受けた。また法玄寺全阿闍梨に胎蔵儀軌を習い、南天竺宝月に悉曇を学び、醴泉寺宗穎に『摩訶止観』を習い、大安寺良侃阿闍梨・浄影寺惟謹阿闍梨に器許密付された。長安に止住六年間、念誦教法経論章疏559巻、眼金両部曼荼羅・高僧真影・舎利・道具などを得た。唐の会昌2年(842)10月武宗の仏教弾圧が始まり、帰国の望みも断たれようとしたが、同5年5月、祠部の牒のない外国僧に本国への追放令が下り、円仁も還俗姿で長安を出発し、途中幾多の新羅人たちに助けられ、新羅商船に乗り、大中元年(847)9月2日登州赤山浦を発して帰国の途につき、承和14年9月18日大宰府に着いた。翌年帰京、大法師位に任じられ、翌嘉祥2年(849)5月延暦寺に灌頂を始修し、翌年春文徳天皇即位に際し、奏請して延暦寺に総持院を建て、常時修法の道場とした。斉衡元年(854)4月天台座主に勅任された。翌々年文徳天皇に両部灌頂を授けたのをはじめ、清和天皇に菩薩戒・灌頂を授けた。貞観6年(864)正月14日示寂。年71。臘49。貞観8年慈覚大師と追諡。著作は『顕揚大戒論』以下100篇を越え、なかんずく『金剛頂経疏』『蘇悉地羯羅経略疏』は円仁の台密教相の教学を述べた代表的なもの。最澄・空海の密教が両部大法なのに対し、円仁のものは胎金蘇三部の大法であり、三部都法の始祖である。また『顕揚大戒論』は大戒独立のために著わしたもの。