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聖武天皇しょうむてんのう

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6524 聖武天皇 しょうむてんのう 701-756(大宝1-天平勝宝8)第45代。在位724-749。文武天皇の第1皇子。母は藤原宮子。名は首、法号勝満。藤原不比等の娘光明子を皇后とし、皇族から立后する慣習を破った。天災地変、氏族の対立や反乱などの政治危機を処理し、積極的に唐代の文物制度を採用するなどして国政を充実させ、他方、仏教を信仰し国分寺・東大寺を創建、大仏鋳造を発願、いわゆる天平文化をつくり出した。749(天平感宝1・天平勝宝1)譲位し、出家。陵墓は奈良市佐保山南陵。
17750 聖武天皇 しょうむてんのう 701-756 724-749在位。大宝元年(701)文武天皇の子として藤原宮に生まれた。幼名首。母は夫人藤原宮子、不比等の女である。慶雲4年(707)父天皇の死に会い、祖母元明、伯母元正の二女帝が相ついで即位したが、その間に平城京の造営が進み、和銅7年(714)6月、首皇子は皇太子として元服を加えられた。霊亀2年(716)藤原不比等の女安宿媛(光明子)と成婚、しかし、養老3年(719)10月、皇太子は「未だ政道に閑はず」(原漢文、『続日本紀』)として「宗室の年長」たる舎人・新田部両親王の輔翼に期待する詔が発せられ、同5年正月には佐為王以下、当時第一級の文人宿儒ら16人に詔して、「退朝の後、東宮に侍」(同)せしめている。皇太子は神亀元年(724)2月4日に元正天皇の譲りをうけて即位。爾後25年の治世がつづくが、同4年、光明子の所生で、その年のうちに皇太子に立てられた基王が夙くも翌5年に死去し、一方では県犬養広刀自所生の安積皇子の出生と重なって、宮中の空気は微妙に動かざるをえなかった。天平元年(729)2月の長屋王の変、同8日の光明子の立后という風に事態は進んでゆくが、天皇については同3年9月8日の日付をもつ『聖武天皇宸翰雑集』書写、また6年までに門部王らに命じて一切経書写の功を覚えていることを見逃しえないであろう。天皇の「帰依一乗」の志はこうして固められ、翌7年帰朝した玄眆に対する帰依も深められてゆく、たまたまそこに、同9年、光明子の異母兄4人を含む要路の大官が相ついで疫に斃れる異常な事態がおこり、宮中の緊張は再び昮まってくる。光明子の異父兄橘諸兄がその収束にあたり、10年正月、まず安倍内親王(光明子所生)の立太子を実現させるが、ついに12年9月、藤原広嗣の乱を避けることができず、10月の末には天皇自身平城京を放棄した。それ以後、恭仁宮・紫香楽宮・難波宮と転々せざるをえず、その間には諸国国分寺の建立、盧舎那大仏の造顕などの詔が発せられているが、17年5月、5年ぶりに平城京に遷幸するに至った。天皇はこのころから次第に健康を害するようになたらしく、以後しばしば不予の事実が伝えられ、19年3月にはそのために新薬師寺も建立されている。一方、東大寺大仏の鋳造はこの年9月から開始されたといい、21年2月、陸奥国から黄金貢献のことがあった。4月、天皇は東大寺に行幸して、みずから「三宝の奴」と称し、また元号を天平感宝と改めている。つい閏5月20日のいわゆる勅施入願文には「花厳経為本」の語とともに、太上天皇沙弥勝満の名告りがみえて、問題を投じている。天皇はそれから3日の後、薬師寺(新薬師寺?)宮に遷り、7月2日、位を皇太子に譲った。孝謙天皇の治世が開始され、元号はまた天平勝宝と改められた。聖武天皇出家の時期についてはなお微妙な問題が残るが、出家そのことは事実であり、新薬師寺がある時期の行在所であったことは認められていいであろう。天皇はその後もなお病がちで、天平勝宝4年(752)4月の大仏開眼会にも果たして臨幸があったか否かは定かでない。6年4月、東大寺に幸し、唐僧鑑真について菩薩戒を受けたことは事実と認められるが、8歳3月、難波堀江に幸したのを最後に、4月からはまた不予の事実が伝えられ、5月2日、56歳にして世を去った。遺詔して道祖王を皇太子に立てたが、これがまた宮中に新たな波瀾を生むことになる。19日、佐保山陵に葬送。出家帰仏の故に諡を奉らずといわれたが、のち天平宝字2年(758)8月に至り、勝宝神聖武皇帝と策し、天璽国押開豊桜彦尊と諡されることになった。聖武天皇の後宮には、光明皇后と広刀自のほかに、矢代女王・藤原夫人2人(武智麻呂・房前の女)・橘古那可智(佐為の女)らが数えられるが、このうち皇子女の出生をみたのは、皇后と広刀自のみである。