曹洞宗
| ID | word | kana | meaning |
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| 7326 | 曹洞宗 | そうとうしゅう | 禅宗の一派。本山は福井県吉田郡永平寺・横浜市鶴見区総持寺。開祖は希玄道元。戒を保ち座禅によって悟りを開こうとする。9Cごろ唐の洞山良价が創始。日本では1227(安貞1)希玄道元が宋の天童山の長翁如浄の法を受けて帰国し、宇治の興聖寺で曹洞禅を唱えたのに始まる。1244(寛元2)越前に永平寺を開き根本道場とした。4世瑩山紹瑾は総持寺を建て教団を拡充、15C-16Cには全国的に普及。 |
| 18058 | 曹洞宗 | そうとうしゅう | 中国五家七宗の一つ。日本禅三宗の一つ。宗名の起源について2説ある。一は洞山良价の洞と、その弟子曹山本寂の曹をとって、倒置して曹洞宗と称したとする説。二は曹渓慧能の曹と洞山良价の洞をとって曹洞宗と称したとする説。前説は中国において起り、後説は日本において行われる。中国曹洞宗は、六祖慧能の南宗禅を継ぎ、六祖慧能以後、青原行思・石頭希遷・薬山惟儼・雲巌曇晟と系統し、雲巌の弟子洞山良价と洞山の弟子曹山本寂を祖として成立する。その宗風は、「曹洞細密」と評されるように綿密の宗風を特色とし、洞山・曹山によって提唱された五位の思想を中心として展開した。しかし曹山の法系は長く伝わらず、のちには洞山の法嗣雲居道磨の系統が曹洞宗を代表するに至った。この雲居派下は、宋代に至り丹霞子を生み、その法嗣に真歇清了と宏智正覚が出るに及んで、曹洞宗は真歇派と宏智派に分かれた。真歇や宏智は、臨済宗楊岐の大慧宗杲が看話禅を鼓吹したのに対し、黙照禅の禅風を唱えた人として知られる。この真歇派と宏智派はいずれもわが国に伝わった。道元がその法を嗣いだ天童如浄は、真歇下の4代の法孫である。宏智派の曹洞宗は、延慶2年(1309)来朝した東明慧日と観応2年(1351)来朝した東陵永璵によって、日本に両伝された。東明は、来朝後鎌倉円覚寺に住し、東陵は天竜寺・南禅寺・建長寺・円覚寺などに住し、いずれも臨済宗寺院に寄寓してそれぞれ曹洞宗宏智派の禅風を挙揚したが、その法系は長く伝わらなかった。なお、時代は下るが曹洞宗の一派として、明代の無明慧経を派祖と仰ぐ寿昌派が5世心越興儔によって延宝5年(1677)日本に伝えられたが、この派も間もなく絶えた。それがため、日本曹洞宗は道元派によって代表され、道元派のみを称している。中国では、如浄の法系はそのあとが絶え、芙蓉道楷派下の曹洞宗が元・明時代に余勢を振るったが、臨済宗の隆盛に及ぶべくもなかった。道元は、天童如浄の法を嗣いで、帰朝後しばらく建仁寺に寓し、天福元年(1233)ごろ深草に興聖寺を開き、孤雲懐奘をはじめとする日本達磨宗出身者の参加をみて、興聖寺僧団を開創した。しかし、10年後寛元元年(1243)7月、越前に移住し、ここに大仏寺を開き、のちに永平寺と改称し、永平寺僧団を開創した。しかし、道元はみずからの宗旨を曹洞宗ないし禅宗と称することを嫌忌したため、永平寺僧団は曹洞宗というよりも、正法宗ないし道元宗であったが、永平寺第2世孤雲懐奘、第3世徹通義介を経て、義介の法嗣瑩山紹瑾に至って、中国曹洞宗との接続がはかられ、道元は日本曹洞宗の元祖として位置づけられた。それとともに、瑩山によって道元の出家主義が払拭され、世間的進出をみることとなった。瑩山は、若くして永平寺の義介のもとに投じたが、その後義介とともに永平寺を出て、義介の住した加賀の大乗寺を継ぎ、さらに能登に永光寺・総持寺などを開いて、積極的に宗風を挙揚した。瑩山のもとには、明峯素哲・峨山韶碩の二哲を生み、明峯は永光寺を継ぎ、峨山は総持寺を継ぎ、さらに峨山のもとには二十五哲の俊秀を生んで、曹洞宗の教勢は全国に伸張するに至った。一方、永平寺は第3代義介のあと、懐奘の弟子義演が住したが、その後荒廃に帰し、道元を慕って来朝した宋僧、宝慶寺開山寂円の弟子義雲が出て伽藍を復興し、宗風を興した。義雲は永平寺中興と称される。以後永平寺は、寂円派によって護持され、第37世石牛天梁にまで至った。中世の曹洞宗は、総持寺教団を中心として発展したがその圏外にあって、永平寺をはじめとして寒巌義尹を開祖とする肥後の大慈寺、義介を開祖とする加賀の大乗寺、瑩山を開祖とする能登の永光寺、峨山の弟子無底良韶を開祖とする陸奥の正法寺などは一派の独立本山としてその教線を全国的に伸張し、曹洞宗の寺院総数は江戸時代延享年間(1744-1748)の調査によると、全国で1万7549ヵ寺を数えるに至った。近世の曹洞宗は、幕府の寺院法度制度のもとに全国寺院を永平寺末・総持寺末に配属して、縦層的な本末関係を確立するとともに、全国の曹洞宗寺院を所属の国ごとに分けて、それぞれ総録所である下総総寧寺・武蔵竜穏寺・下野大中寺の関三刹、および遠江可睡斎の支配下において統轄した。近代の曹洞宗は、この江戸時代の封建体制をいかに脱皮し、新時代に即応した教化体制を布くかの苦闘の歴史であり、明治23年(1890)僧俗の宗意安心の標準として公布された『修証義』の編纂はこれを物語る。今日の曹洞宗は、道元を高祖、瑩山を太祖として両祖と崇め、道元の開いた永平寺、瑩山の開いた総持寺を両大本山と仰ぎ、寺院数1万4000余ヵ寺の日本仏教最大宗派を成している。 |