天海
| ID | word | kana | meaning |
|---|---|---|---|
| 8457 | 天海 | てんかい | 1536-1643(天文5-寛永20)安土桃山時代・江戸初期の天台宗の僧。号は南光坊・智楽院。勅諡号慈眼大師。陸奥会津の人。叡山・園城寺・興福寺などに修行。1589(天正17)駿府で徳川家康に謁して帰依を受け、河越喜多院・日光山を宰した。家康死後、2代将軍秀忠を補佐して家康を久能山から日光山に改葬し、1624(寛永1)秀忠の命で江戸上野忍ヶ岡に東叡山寛永寺を創建しその開山となった。3代家光の時にはその信任を得てさらに勢力をふるった。1637寛永寺に経局を設け「大蔵経」の版行を行ない、1648(慶安1)に完成。天海版「大蔵経」である。 |
| 18394 | 天海 | てんかい | ?-1643 安土桃山・江戸時代前期の天台僧で東叡山の創始者。南光坊と称する。その出自や年寿に諸説あるが、陸奥国高田(福島県大沼郡会津高田町)の出身で出家して随風と称し、比叡山の実全に天台学を学び、三井寺や南都で倶舎・三論・唯識・華厳の諸教学はじめ禅や密教を修したと伝える。織田信長の比叡山焼討後は甲州で武田家に集まった天台僧と論義をなし、天正19年(1591)江戸崎不動院(茨城県稲敷郡江戸崎町)に住し、慶長4年(1599)に仙波喜多院(埼玉県川越市仙波町)に入り、関ヶ原の戦のあと徳川家康の知遇を受けて内外の政務に参画し江戸幕府成立の枢機にあずかったといわれる。のち家康の命で叡山最高職探題となり論義を復旧し、南光坊に住して信長焼討による全焼後の延暦寺復興を始め、徳川家光に願って根本中堂・大講堂・文殊楼などを再建した。この間長沼宗光寺(栃木県芳賀郡二宮町)、世良田長楽寺(群馬県新田郡尾島町)の学山に住して教学を振興し、元和3年(1617)、仏教と神道を融合した山王一実神道の立場から、家康の遺骸を日光山に移し東照大権現位を勅許されるや、日光山輪王寺建立に尽力した。天海は崇伝とともに徳川秀忠・家光の帰依を受け幕府に出入して政務に参画、秀忠に円頓戒を授けた縁により、寛永2年(1625)江戸城の鬼門にあたる忍岡に東の比叡山と年号にちなんで東叡山寛永寺(東京都台東区上野公園)が建立されると、その第1世となり、寛永寺を徳川家の廟所とした。諸大名も法華堂・堂行堂・東照宮・鐘楼などの諸堂舎を寄進造営したため、寛永寺は関東屈指の大寺院となり、正保4年(1647)後水尾天皇第3皇子守澄入道親王の入寺後、日光山・東叡山・比叡山の三山を兼ね天台宗を管掌することになった。寛永14年木彫活字版の大蔵経刊行を企て寛永寺に経局を設け、のち12年を経て完成したが世に天海版大蔵経(6323巻)と称する。同16年『東照宮縁起』を作り、同20年10月2日示寂。享年108(102・132・134・135歳の諸説あり)。墓所は輪王寺慈眼堂廟堂。慶安元年(1648)慈眼大師と諡号され、慈恵大師とともに両大師として信仰されている。天海伝は、七回忌に慈眼の諡号宣下にあたり、他に東源撰『慈眼大師伝』(正保ごろ)があり、天海の関係記録や関係史料雑纂は『慈眼大師全集』下に収録されている。 |