日蓮
| ID | word | kana | meaning |
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| 9299 | 日蓮 | にちれん | 1222-1282(貞応1-弘安5)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字は蓮長。安房の人。12歳で安房清澄山に登って天台宗を学び、長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」あることを悟り、1253(建長5)清澄山に帰り日蓮宗を開いた。日蓮はきびしく他宗を攻撃、論破したので他宗派の圧迫を受けたが屈せず、1260(文応1)には「立正安国論」を著わして幕府に献じ、「法華経」を信じなければ国難がくると予言、諸宗を責め、幕政を批判したので、伊豆に流された。やがて許されたのちも依然言動を改めず、1271(文永8)もは佐渡に流された。1274許されて甲斐身延山に隠棲、1282(弘安5)武蔵池上に行き死亡。死の直前に本弟子6人(六老)を定めた。主著「開目抄」「観心本尊鈔」など。[全集] |
| 18655 | 日蓮 | にちれん | 1222-1282 鎌倉時代の僧、日蓮宗の開祖。貞応元年(1222)安房国長狭郡東条郷片海(千葉県安房郡天津小湊町)に生まれる。日蓮は「海人が子」と自称し、教団では武士の子と伝えるが、当地の荘官クラスの子と考えられる。幼名を薬王丸・善日麿とも伝える。天福元年(1233)のころ近傍東北荘の天台寺院清澄寺に登り、嘉禎3年(1237)ごろ出家得度。房号は是聖房といい、僧名ははじめ蓮長、さらに日蓮と改めたと伝える。出家の動機は無常感抱懐にあった。遠国安房に就学の師なしとした日蓮は、延応元年(1239)のころから、鎌倉さらに京畿に留学。留学の中心地は天台宗比叡山延暦寺で、日蓮は『涅槃経』の「法に依れ、人に依らざれ」の教えにより『法華経』をよるべき法=経典とする法華至上主義に到達、その一方、反浄土教の立場をとっていった。建長4年(1252)のころ清澄寺に帰り、翌年4月(3月とも)28日同寺において法華信仰弘通を開始。教団ではこれを立教開宗とする。弘通は反浄土教の主張を伴ったので、同寺内の浄土教信奉者や近傍の地頭東条景信ら信奉者たちから反発をうけた。加えて、日蓮はその父母が「御恩」を蒙った領家の尼に味方して、尼の土地を侵蝕しようとした景信の野望を摧いたことも重なり、景信は清澄寺での日蓮の師道善房に日蓮の勘当=追放を迫った。このため、日蓮は建長6年のころ同寺を退去、鎌倉に出て名越で教えを弘める。やがて正嘉元年(1257)から文応元年(1260)にかけて地震・暴風・洪水・疫病・飢饉などが続出、死者・病者・飢餓者が輩出した。日蓮は災害続出の原因と対策を宗教的立場から考え、『守護国家論』(正元元年(1259))・『立正安国論』(文応元年)を執筆、『立正安国論』を北条氏得宗北条時頼に提出。『立正安国論』は邪法である法然浄土教に人々が帰依して法華信仰を棄捨したことを災害続出の原因とし、対策を浄土教徒への布施禁止と法華信仰への回帰とし、そうしなければ、経に説くように自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(侵略)の起ること疑いなしとした。『立正安国論』での主張を知った鎌倉浄土教徒は、日蓮と問答をしたばかりでなく、名越に日蓮を襲撃した。その危難は免れたが、日蓮は幕府により弘長元年(1261)伊豆国伊東に配流、同3年赦免。翌文永元年(1264)、日蓮は安房に帰省して弘通するが、東条松原大路で東条景信らによる襲撃の難にあうが(小松原法難)、免れて鎌倉にもどった。一連の受難のなかで、法華信仰弘通者の値難を予言した仏のことばの体現者としての自覚と仏のことば=予言の実証者としての自負とが、「法華経の行者日蓮」として表現されるようになる。文永5年服属か交戦かの選択を迫る蒙古(モンゴル)の国書が到来、『立正安国論』の他国侵逼難の実現化が日蓮や他の人々に意識され、日蓮に帰依する者も増えていくが、この時期日蓮は、「是一非諸」とよばれるラジカルな法華択一の立場にたち、浄土教・禅・律の諸宗を批判、日蓮の信奉者の言動も先鋭化した。このため、日蓮らは同8年訴えられ、9月12日幕府の弾圧をうける。このころ蒙古襲来の気配が高まり、幕府は翌9月13日関東在住の御家人で九州に所領をもつ者に自身または代官がその所領に下向して防衛体制下に入ることと所領内の悪党鎮圧を命じた。幕府の膝元鎌倉での日蓮らの言動を悪党における反秩序的な言動とみての弾圧と考えられ、日蓮は相模竜口で危く斬首されようとしたが難を免れ、佐渡に流謫。門弟のなかにも流刑・拘禁・御内追放・所領没収される者があったとともに転向者が続出、潰滅的打撃を蒙る。日蓮の斬首されるかの危難になぞらえて竜口法難というが、むしろ文永8年の法難というにふさわしい一連の弾圧である。同11年に及ぶ流人生活のなかで、日蓮は、受難の意味づけと法華信仰弘通者の使命感とを『開目鈔』(同9年)に、法華信仰実践の集中的表現としての唱題の救済論的意味づけを『観心本尊抄』で行なった。同9年の北条時輔の乱は自界叛逆難の現実化としてうけとられた。同11年鎌倉にもどされ、北条時宗の被官平頼綱に会見、蒙古防衛にかかわる真言密教重用不可を勧告するが、いれられず、5月鎌倉を去り漂泊の旅に出、一時期滞在の地とした甲斐国身延山に最晩年の弘安5年(1282)まで過ごすことになる。この間、『撰時抄』(建治元年(1275))、『報恩抄』(同2年)などの執筆とともに、各地の信奉者に書状やその信仰生活の中心となる曼荼羅本尊を書き送った。身延入山後は、信奉者のなかには、日蓮に帰依するため親子・主従間の軋轢を生じた者もあったが、日蓮はかれらを励ましたばかりでなく、弘安2年駿河国富士郡熱原に起ったいわゆる熱原法難にも身延で対処した。しかし、次第に健康を害していき、ついに同5年9月に病身を養うべく身延を出て常陸の温泉に向かうが、途中武蔵国池上の信奉者池上宗仲の館に留まり、日昭ら6人を本弟子に指定して10月13日示寂。61歳。池上で荼毘にふして、遺言により身延に墓所を設けた。大正11年(1922)には「立正大師」号を贈られた。 |