不動信仰
| ID | word | kana | meaning |
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| 18903 | 不動信仰 | ふどうしんこう | 大日如来の使者である不動明王を大日如来の教令輪身(忿怒像)として信仰すること。『大日経』『不空羂索神変真言経』に不動明王のことが書かされている。不動明王は教令輪身のほかに寂滅定をとる。そして次のような特色を持つ像である。火生三昧。童子形。七莎髻。左側に弁髪を垂れる。額の皺文。左の一目を閉じる。下の歯で右辺の上の唇を噛む。口を閉じる。右手の剣。左手の索。大磐石に坐す。身体の色は青黒。奮迅忿怒。迦楼羅炎を負う。空海の守護仏が大日如来であるところから、不動明王は東密の中に浸透していった。染殿后を呪詛したといわれる真済、不動明王に化したと伝える覚鑁が不動尊信仰者として大変有名である。その他、平清盛、文覚とその弟子明恵の信仰がよく知られている。これに対し、台密側では空海の姪の子である円珍がいる。円珍は東密の不動明王と全く異なったものを創った。園城寺の黄不動画像がそれである。両眼をまるく見開き、虚空を踏み、そして中年の男性の身体をしている。円珍の不動信仰はその弟子たちにより継承され、不動法が修され、加持祈祷の主尊として信仰された。園城寺が熊野信仰と結びつくにつれ、さらに熊野修験と不動明王が関係し、鎌倉時代になると、円珍が天台宗の修験の祖とまで信仰されるに至った。一方、葛川に相応があらわれ、山門派にも不動信仰が確立した。比叡山の回峰行で名高い無動寺がその所である。天慶3年(940)から始まった不動明王を中尊とする五壇法が山門派の修法として発達し、やがて横川から起った天台浄土教は山中の不動信仰を大きく変化させた。臨終正念のために煩悩もたちきる明王というのがその役割となった。『沙石集』の「不動利益の事」の中に、「不動ト地蔵トノ力放レテハ、生死ヲ出ル事ナシ(中略)地蔵ハ大日ノ慈悲ノ極リ、不動ハ大日ノ智慧ノ極リ也」と書かれるまでに至った。今も墓地の入り口の六地蔵とともに不動明王像があるところもある。不動明王は平安時代に真言密教による加持祈祷の本尊としての不動明王の信仰は今に至るまで主流である。なお、不動明王は毘沙門天とともに観音の脇士として広く信仰されている。 |