法相宗
| ID | word | kana | meaning |
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| 11092 | 法相宗 | ほっそうしゅう | 慈恩宗・有相宗・相宗ともいう。南都六宗の一。瑜伽論(ゆがろん)・成唯識論(じょうゆいしきろん)を典拠とし、広く諸法の性相を究明しようとする宗旨。653(白雉4)道昭が入唐して伝え、智通・智達・智鳳・智鸞・智雄・玄昉があいついで広め、元興寺(南寺伝)・興福寺(北寺伝)を中心として栄えたが、鎌倉時代以後は宗勢ふるわず今日に至っている。 |
| 19013 | 法相宗 | ほっそうしゅう | 南都六宗、日本八宗の一つ。諸法の決択をすることから法相宗という。『大方広仏華厳経』『解深密経』『如来出現功徳荘厳経』『阿毘達磨経』『楞伽経』『厚厳経』の6経と、『瑜伽師地論』『顕揚聖教論』『大乗荘厳経論』『集量論』『摂大乗論』『十地経論』『分別瑜伽論』『観所縁縁論』『二十唯識論』『弁中辺論』『大乗阿毘達磨集論』の10論を所依とする宗派。唯識宗・応理円実宗・中道宗ともいう。本山は奈良市の興福寺と薬師寺。本宗の教理はインドの無著・世親の兄弟が組織した。世親は弥勒・無著の説を受けて大成に努め、『摂大乗論釈』『唯識三十論』『唯識三十論頌』『百法明門論』を著わした。特に『唯識三十論頌』は本宗の教理を体系化した根本論典で、安慧・難陀・護法らの十大論師がその研究と註釈に努め、本宗は全インドを風靡した。その内、護法は学説を樹立し、それを弟子の戒賢に那爛陀僧院で伝授した。そのころ入竺した玄奘は戒賢に師事し本宗の奥秘を受ける多数の経典を長安に持ち帰り翻訳に専念し、『唯識三十論頌』に対する護法の説を中心に集大成したのが『成唯識論』10巻である。玄奘の弟子窺基(慈恩大師)はその編纂への参加を許され、教義を確立して法相宗を成立させた。よって護法宗または慈恩宗ともいう。窺基には『成唯識論述記』20巻、『成唯識論掌中枢要』4巻、『大乗法苑儀林章』7巻など多数の著述があり、「百本の疏主」と称される。弟子の慧沼は『成唯識論了義燈』7巻、その弟子の智周は『成唯識論演秘』7巻を述し、ここに本宗の正義を確立した。この『枢要』『義燈』『演秘』の3書を「唯識三箇の疏」と称し、『述記』とともに唯識の指南書となっている。本宗は7世紀中ごろから8世紀中ごろにかけてわが国に伝わり、第一伝道昭、第二伝智通・智達、第三伝智鳳・智雄、第四伝玄昉とされる。第一・二伝は元興寺を拠点に広まり南寺伝、第三・四伝は興福寺を拠点に広まり北寺伝と呼ぶ。南寺の学窓は早く衰えたが、行基・義淵・善珠・護命・明詮・玄賓・常騰・長載・慚安、特に喜多院空晴の門下、仲算・明憲らにより盛況を呈する。平安時代末、菩提院蔵俊が傑出し、本宗研究の精髄『唯識論第六巻菩提院鈔』を著わし、その門に覚憲、覚憲の門に貞慶、貞慶の門に良算・興玄・覚遍・円玄・璋円・円経と法系が続く。本宗は2寺のほか法隆寺や薬師寺など南都の諸寺の間でも相承されたが、南北朝時代以降宗勢は衰え、わずかに光胤・興基・営尊・長乗らにより古徳の相伝を保った。江戸時代、将軍に進講した喜多院空慶が有名で、また東大寺に清慶、法隆寺に叡弁、薬師寺に高範が輩出した。各宗の教学が勃興するとともに、他門の学匠中には本宗を兼学する者も多く、元禄ころ、唯識論の関連の書が多数出るなど宗勢はやや栄えた。しかしその後はさらに衰え、明治維新には興福寺の廃寺、法隆寺・薬師寺の真言宗所轄で法相宗は壊滅しかけたが、明治15年(1882)興福寺・法隆寺が法相宗として独立して二本山とし、初代管長に法隆寺の千早定朝が就任した。明治19年薬師寺が法相宗へ加入、昭和25年(1950)法隆寺が聖徳宗として独立。以来興福寺・薬師寺の二本山となる。 |